Я хочу жити в Україні.(私はウクライナに住みたい。) 〜生の言葉が伝える痛みについて

ある人間の生の言葉を、別の人間が生で理解できるということは、そこに込められた痛み・悲しみ・怒りといった温度、生の感情を感じ取ることであり、どんなにAIや自動翻訳が進化しても、この「生々しさ」を超えることはないのだと確信しました。
そして、「外国語がわかる」というのは自分の内的・外的世界を広げてくれる「楽しい」ものだと基本的には思っていますが、時にこんなにも痛さを伴うものであるのだと、今回改めて思い知りました。

日本で暮らす私達が、SNSのプロフィール画像にウクライナ国旗のマークを入れるのも、各地のデモでウクライナ国家を歌うのも、一つのサポートであり、人道的な草の根根活動としてもちろんありだと思います。ただ、個人的には、ロシアにも、ウクライナにも、それぞれの地に友人がいて、彼らの顔を思い浮かべると、記号的に国旗画像を付けることには少しためらいを感じてしまうのです。(もちろん表明している人もけっして「ロシア人」を責めているわけでなくて、「国家(政府)」として捉えたうえでの「反対」のニュアンスだとは思いますし、ロシアの中にもリスクを覚悟で反対を訴える人はたくさんいますが。)