「ホワイトクリスマス」の歌は、実は南半球の人が作ったのではないかと思う。12月のオーストラリアでは真夏のクリスマスだからだ。
「オーストラリアって日本と時差大きいよね?」とよく聞かれるが、大きいのは大陸であって時差ではない。確かに大陸がデカイだけあり国内の州間で時差はあれども、ブリスベンのあるクイーンズランド州(QLD)と日本にかぎって言えば、時差は日本+1時間で小さい。(日本が朝6時ならブリスベンは朝7時)しかもQLDはサマータイム制を取っていないので、年中常に日本との時差は1時間、至ってシンプルである。
「季節が真逆である」ということも意外と認識されていなかったりする。QLDは亜熱帯気候に属し年中比較的温暖なので厳密に「真逆か」と言われたら怪しいが、とりあえず東京が冬ならこちらは夏である。
私がブリスベンで真夏のクリスマスを過ごすのは実に5年ぶり。社会人留学時代以来だ。相方と一緒に過ごすのも5年ぶりだ。
当時恋人、今は配偶者となった相方とは、留学後に日豪間で遠距離になったのに加え、コロナのパンデミックに突入し豪州の国境は封鎖。4年間、クリスマスは離れ離れだった。「恋人たちのクリスマス」の風潮が今なお強い(気がする)日本で多少、いや、かなりやさぐれながらも、お互い日豪現地のAmazonを使い、プレゼントを贈り合ったりとそれなりに「クリスマスっぽいこと」を試みていた。いつしかそれに慣れてしまい、改めて対面でプレゼントを渡したり、テーブルに向あえるのが5年ぶりということに自分達でも驚いた。
日本の「今年の漢字」は「戰」だという。流行語大賞の表彰式には「キーウ」の呼称を提唱していた、学生時代のロシア語・ウクライナ語の恩師が姿があった。久々に見る恩師の姿に嬉しいような、でも受賞背景を思うと切ないようなまぜこぜの気持ちだった。
日本の「恋人たちのクリスマス」、オーストラリアの「家族」が主体のクリスマス。どちらも大切な人と過ごしたいという根本は同じはず。「だが世界にはそれをどんなに願っても叶わない人がたくさんいるということも忘れないで」という一文が、職場でアメリカ本社のトップからのクリスマスメッセージにあった。
戦地で、避難先で、病院で・・・なんらかの事情で、願っても会えない人たちがこの地球上にはたくさんがいるということ。
我々も4年間離れ離れだったとはいえ、半年も日常生活を共にしているといつの間にかその時の切な気持ちも薄れていってしまいそうになる。でもこの「当たり前」を手に入れるためにどれだけ苦悩したか。「当たり前でない当たり前の日常」は、それだけで十分感謝に値するのだと、はっとさせられた。
クリスマスのプレゼントも飾り付けもごちそうも、どれも心が浮き足立つ。私もアドベントカレンダーやポインセチア、猫用ツリーを飾り万全の状態で迎えようとしている。
でも、クリスマスの本質とは「平穏な日常のありがたさ」「会いたい人に会える喜び」、そういったことに改めて気がつくことなのかもしれない。それにしても、北半球で30年暮らした人間にとってはやはり、燦々と陽が降り注ぐ広場のツリーや、街を行き交う人々のクリスマス柄Tシャツの光景には当然だがまだ違和感を少し覚える。
「寒いね」と言い合いながら去年、一昨年と祖母と二人で見に行った大阪中之島のイルミネーション。祖母に「会いたい」と願う私は、きっと欲張りなのだろう。
5年ぶりの真夏のクリスマスは、相方と猫たちと家でゆっくりしながら祖母とビデオ通話でもしよう。
Sincerely wish you a Merry Christmas from Australia.
Ayaka