Giver or Taker? ーあるいはMatcher

人間の行動様式の3類型として、Giver・Taker・Matcherというのがある。
数年ほど前にGiver・Takerの概念をPodCastか何かで聞いて、以来できるだけ利他の精神を持ったGiverでありたいと思い、自分なりにできる範囲で努めてきたつもりだった。
だが、Gievr・Takerに加えてMatcherのタイプもあると知り、自分は「Giver寄り(でありたい)Matcher」なのかもなぁと思うようになった。

Giverの発想は利他が先にあり、結果としてGivenされることもあるGive&Givenのサイクル。「誰かのために何かしたら、結果的に自分に返ってきた」(本来の意味での「情けは人の為ならず」)というもの。

Takerは利己が発想の出発点で自分がTakeする過程で、TakenされることもあるよねというTake&Takenのサイクル

その両方の中間でバランスを取っていくのがMatcherだという。

自分の場合、具体的に言えば、大学の先生、留学時代のチューターさん、自転車メディア関係の方など、昔お世話になった方々から「新著の内容協力を」「現役学生に話を聞かせてあげて」「海外インタビューの和訳を」等、依頼されたら有償・無償問わず自分の資本(時間・体力・気力)が許す限りは全力で応えたく、微力ながらもお引き受けするようにしている。

それが間接的であれ、直接的であれ、その方たちの役に立てることが自分にとって「喜び」で、何よりその方たちのことが根本的に好きで、信頼・尊敬しているからだ。

年齢や立場的な順番で自分がGiveされる(Given)ことが先だった分、少しでもGive、心ばかりの「恩返し」ができたらという想いが原動力になっている。

その一方で、友人・知人の関係においては、ふとした出来事がきっかけで「あれ、なんだか私、この人に一方的にTakeされている・・・?」と思ってしまうことがある。大人になれば、家族・親戚間でも同様である。

Given(言ってしまえば「見返り」)を期待しているとはちょっと違う。
物理的・心理的なものを問わず、自分がGiveしたものの労力・意味・価値が思うように伝わっておらず、当然のこととして捉えられたり、軽率に扱われてしまうと、とても悲しい気持ちになってしまうのだ。
相手に悪意はないので「厚意を無下にする」とは少し違う、自分がGiveしたものだけでなく、自分の気持ちまでTakeされていってしまったような感覚。
多くの人が一度か二度は経験したことがあるんじゃないだろうか。


とはいえ、自分の中にも意地汚い(ある意味で人間臭い)GiveだけでなくTakeしないと腑に落ちないと言うMatcherな側面も大いにある。
例えば冠婚葬祭がそれで、そこにお金が絡むと人間の感情はややこしくなる。「私はGiveしたのにあの人からは・・」と思う「もやもやリスト」が長年脳内の引き出しにあったりする。
そんなリストはさっさとお焚き上げ、いっそ引き出しごとお払い箱にしてしまえと思いつつ、そうも割り切れない自分が情けない。せめて(彼らには悪いが)反面教師にして「自分が人にした良いことは忘れ、してもらった良いことだけ覚えておく」と言う教訓を、自分に言い聞かせ続けている。

得てして、人間は自分がしてもらった良いことを忘れがちな生き物なのだ。


もちろんGive&Takeだけが人間関係の全てではなく、Giver・Taker・Matcherもあくまで行動様式の類型の一つである。
それでも自分の身の回りの人間関係において「無意識に誰かのTakerになってしまっていないか」と定期的に内省することはきっと大切だ。

そして身近な大切な人たちとは健全かつ持続可能なGive&Givenの関係を続けていけたら人生をもっと豊かに感じられるだろう。

なお、唯一の例外は猫であり、どんなにそっぽを向かれようが見返りのない愛情を彼らだけには永遠にGiveし続けることができる気がする。

Have you given anything to anyone recently?
Ayaka

(参考:一橋ビジネススクール 楠木健氏『GIVE&TKAE』https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17535390