気づけばオーストラリアでの移住生活も3年目。
仕事に趣味に猫にと明け暮れるうちに日々は流れるように過ぎていく。
そして結婚生活も早3年目に突入した。
相方(ブリスベン育ちの日本人)とは、留学時代に出会った。それから日豪間で遠距離をすること4年強、そのうち2年半はコロナ禍で行き来できず一度も会うことがなかった。
離れていた時間は気が遠くなるほど長かったのに、一緒にいると時間は月単位であっという間だなと、毎月末、家計簿を締めながら思う。
無限に続くTwitter(X)の画面や、日本のニュース番組で婚活がらみのトピックがふと目に入ると、結婚に求める絶対条件は本当に人それぞれなんだなとつくづく思う。容姿、経済力、学歴、家柄、趣味、身体の相性, etc.
結果論にはなるが、3年目に入り自分にとっての絶対条件、譲れないもの(あるいは執着)の核はコレだったのかと、ようやく見えてきた気がしている。
自分には敵わないと思える地頭の良さ、真逆の発想、複数の文化的背景を持っている、要素は色々あるが(そしてそれは私が相方を尊敬している点でもある)、私にとって一番重要なのは「言葉」だったようだ。
自分の言葉と相手の言葉をどこまでぶつけ合えるか。
「ぶつけ合う」と言うと乱暴だが、言葉を通してどこまで自分を適切に伝え、相手を理解しようとし、擦り合わせることができるか。
コミュニケーションの圧倒的大部分は身振りや仕草、トーン、姿勢といったノンバーバルな要素で言葉が伝えるものなどごく僅か、25%か説によっては数%にしか過ぎない。
それでも私は、いい時も悪い時も互いにとって最適な言葉を探し出して、言葉で向き合いたい人間なんだと思う。
報道記者になりたいと邁進していた学生時代からずっと、人を傷つけるのも言葉なら、人を救うのも言葉だと信じてきた。
幸い、仕事も生活も不自由ないレベルで英語は使えるが、それでも母語の日本語のようには痒いところに手が届くレベルでは到底ない。
それどころかいまだに自身の日本語の語彙・表現の狭さに焦ったくなるくらいである。
他方、日本生まれ・オーストラリア育ちである「ジャパニーズ・オージー」な相方は日本語・英語の完全なバイリンガル。英検やTOEICをいくら持っていようとも、私の英語力など相方の隣では月とスッポンである。
そんな我が家の中はフル日本語で、愛猫たちも日本語を理解している(と親心で勝手に思っている)。夫婦間で英語を使うのは基本的に家の外、ローカルの友人・知人、つまり非日本語話者の第三者を交えた場合のみ。
地を這うレベルにくっだらない、生産性のカケラもないような話から、仕事での喜怒哀楽、世間話、どんなレベルの話でも互いに違和感なくチューニングして言葉をしっくり噛み合わせることができる、それが私にとって一番心地よい空間を作る絶対条件なんだなと。
米津玄師の歌の中で、無意識に耳に残っているフレーズがある。
「肺に睡蓮 遠くのサイレン
響き合う境界線
愛し合う様に 喧嘩しようぜ
やるせなさ引っさげて」
(米津玄師 『感電』)
同じ母語話者同士だからって、誰とでも、いつでも必ずしも言葉が噛み合うとも限らない。
それでも、私は私が選んだ(そして選んでくれた)パートナーと、互いに言葉を紡ぎ、投げ合い、愛し合って喧嘩して、境界線を響かせ、震わせ合っていきたい。
くっだらないことから、呆れるくらいバカ真面目なことまで。
We are imperfect, so we complement each other through our words.
Ayaka