オーストラリアでの再就職先、Wileyでの勤務が始まりました。
Wiley(John Wiley & Sons)は1807年にアメリカで創業した科学、医学、教育などの学術出版社で、世界40ヵ国・地域に展開し、約1,600誌のジャーナルを出版しています。私はそこのContent Review チームの Editorial Office Coordinatorとして勤めることとなりました。平たく言うと、学術誌の編集事務局での査読(ピアレビュー)の進捗管理・調整が主な仕事で、日本・オーストラリアの両メンバーたちと連携しながら日々の業務にあたっていきます。
正直、オーストラリア移住に伴い、4年間遠距離をした相方とようやく一緒に暮らせるという喜びの半面、前職(Z会)を退職せざるを得ない、というのはとても心苦しく、寂しいことでした。(たとえリモートの時代であっても組織や法務の制度上、国をまたぐとどうしても難しいことはあるものです。)
大学時代に英語教育を専攻して、新卒で就いた念願の英語教材編集者という仕事。苦しい時期も、自分の至らなさゆえに迷惑をかけてしまったこと、失敗したことも山のようにありましたが、社内外の人に恵まれ、やりがいを感じ、曲がりなりにも約10年間勤めた仕事。未熟ながらも自分なりの誇りと愛着を持っていた仕事でした。
なので、ITエンジニアとしてブリスベンの現地企業で働く相方に、一時は「あなたが日本に転職したらいいじゃない!」とけしかけ、喧嘩したことも何度かありました。とはいえ、彼も自負ややりがいを持っている「職業人」同士。国際遠距離恋愛である以上、どちらかが決断しなければ一つ同じ屋根の下で暮らすことはできず、ずっと平行線のまま。(離れて暮らすという選択肢もありっちゃありですが。)
多くの方にとってきっとそうであるように、私にとっても仕事とは、自分の足場となるもの。自分自身を支え、経済的・精神的両面で自立するために欠かせないものです。
もちろんフリーランス・個人事業主として個人でやっていくというのも一手ですが、組織の中でのチームプレイが好きであること、個人ではなく組織だからこそ社会に与えられる影響・できる貢献がたくさんある、という考えが自分の中にあるので、大好きな仕事を自主退職するというのは、一種、苦渋の決断でした。
嬉しさの中にも一抹の寂しさを抱えながらの移住ではあったのですが、ありがたいことに渡豪してから約1ヶ月後、現在の会社の人事の方に声をかけていただき、選考プロセスを経て今に至りました。
「海外移住」「海外転職」を目標とする方から見れば、「日本で社会人を10年」というのは、すごく遠回りのように見えるかもしれません。けれど私自身は、「海外留学」は10−20代の目標ではあったものの、移住は目標ではなく結果であっただけなので、決して「遠回り」とは思いません。むしろそこで培った「英語×編集×10年」というスキルセットがあったからこそ、国を変えてもスムーズにシフトできたのではと。
もちろん、海外転職・就職には多様なルートがあり、私自身のも一つのケースでしかありません。でも、日本・オーストラリア、そして各国のスタッフとやりとりする中で、日本の企業文化の中で培った仕事の基礎、オーストラリア留学中の現地インターンで学んだ多国籍・多人種の職場での人間関係の作り方、それらのすべてが血肉になって今につながっているのだなと身をもって実感しています。
時に、6月末の結婚を経て日本の戸籍上、改姓しました。
オーストラリアでは改姓は「義務」ではなく「選択」(つまりしなくてもOK)なので、「いずれかの姓を選択」という日本の仕組みに、違和感や抵抗がまったくなかったかといえば、それは嘘になります。(※相方や彼のご両親がどうこうではなく、一般論として。)
幸い、オーストラリアや英語圏はプライベートはもちろん職場でもファーストネーム(名)で呼び合う文化なので、上司や同僚からはもっぱら Ayaka です。なので自然と姓に関わらず「自分=Ayaka」という意識が先に立つのはありがたいことです。語弊があるかもしれませんが姓に関しては、相手方企業(=相方)と合併(=結婚)して社名(=屋号)が変わった、という感覚に近いのかもしれません。
ちなみに改姓後の姓は「足立」です。自分の足でしっかり立つ、足立。夫婦は確かにチームではあるけれど、結婚していようがいまいが、もっといえば性別も年齢も関係なく、そもそもの人間の基本単位は「1人」。そう思うと、新しい屋号、姓は「オーストラリアの大地でもしっかり立って歩んで行けよ!」と、自分を奮い立たせてくれる感じがしています。
世界はまだまだ、新しい出会いに満ちているのでしょう。
それはまだ見ぬ新たな自分との出会いも含めて。
Unlock and discover yourself.
Ayaka